昇仙峡と水晶

「水晶といえば昇仙峡」こんなイメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか。
実は、昇仙峡で水晶が採れたという歴史上の記録はありません。
どうして「水晶といえば昇仙峡」のイメージができていったのか、水晶と昇仙峡の関係について解説します。

観光地としての昇仙峡は金櫻神社や国指定特別名勝の御嶽昇仙峡を含む範囲です。
この特別名勝を楽しむための道である御嶽新道は天保4年(1833)に開発が計画され、天保14年(1843)年までに完成しました。
ちなみに、御嶽新道には新道開発の立役者となった長田円右衛門の碑がたてられています。

それより以前、金櫻神社を訪れる人々は「御嶽古道」という道を行き来していました。
金櫻神社は金峰山山頂を本宮とする神社で、現在御嶽に建てられている社は里宮にあたります。
御嶽古道は金峰山への登拝の道で、1814年の『甲斐国志』には9筋の道が記録されています。

甲府を出て御嶽の金櫻神社を通る道は亀沢や吉沢から山道となる上道・外道を通る道でした。
そして、金櫻神社を通り金峰山まで登る過程で水晶の産地を通過していきます。
1752年の『裏見寒話』や1814年の『甲斐国志』には金峰山で水晶が産することが記されていますが、このなかに「御嶽」や「昇仙峡」という言葉は登場しません。

金櫻神社の門前町であった御嶽村ですが、御嶽村から最も近い水晶産地は、上帯那村地内で黒平村・下帯那村との3村で管理する御巣鷹山でした。
しかし、御嶽村の人々はこの御巣鷹山での水晶採掘は許可されていませんでした。
ちなみにこの御巣鷹山に関連して1825年に水晶が盗掘されたので罰してほしいという古文書が見つかっています。

1831~1845年の間、京都から来た玉屋の弥助という人物が金櫻神社の御師に水晶の研磨方法を伝授したと伝えられています。
御嶽新道が開発されて昇仙峡が誕生したのもこの頃のことになります。
そして1846に御嶽山社家2名が6両の土地代を支払うことで上下帯那村・黒平村から水晶の採掘権を譲渡されたという古文書が見つかっていますので、ようやく御嶽村の人たちは上帯那村内での水晶採掘が可能になったのです。
つまり、御嶽村や昇仙峡では水晶採掘の記録はなく、水晶産地は上帯那村・黒平村、水晶加工は御嶽村という状況がありました。

金櫻神社(里宮)

その後、明治時代になると県令藤村紫朗が勧業試験場に水晶加工場を設置するなど、水晶加工も甲府の中心に移動していきました。
そんな中、1894の『日本風景論』のなかで「昇仙峡」という呼び名が登場します。
昇仙峡が再度脚光を浴びるきっかけは1903年の中央線延伸で、これをきっかけに旅行者が昇仙峡を訪れるようになりました。
1922年には東宮(後の昭和天皇)の行啓が行われ、名勝地としての知名度を高めていきます。

昭和初期の観光案内を見ると御嶽名物として、そば・やまめ・水晶などの記載があります。
この観光案内にも「昇仙峡で水晶が採れる」とは書かれていません。
「上黒平」などの具体的な地名を書くものや「国産」とはぐらかしているものがありますが、「御嶽産」や「昇仙峡産」という記載はありません。
どちらかというと、皇室が泊ったうちの宿をぜひ利用してくださいという宣伝の方が多く見られます。

その後、1931年の満州事変から戦時体制に突入していき、1945年に第二次世界大戦が終戦します。
1950年には戦後復興に伴う一般観光旅行の再開を促す目的で、はがき投票によって「新日本観光地百選」が選ばれました。
この新日本観光地百選の渓谷の部で昇仙峡は一位を獲得し、郵政省によって「観光地百選切手」という記念切手が作られます。
この記念切手の解説文の中で「所在地御嶽は古くより水晶の産地として名高い」と記されています。

明治時代前半(1880年代)までの金峰山で水晶採掘が活発だったころの記憶は、名勝としての観光地化や戦争のなかで薄れていき、水晶採掘の実状が忘れられたころに郵政省(行政)が「昇仙峡の所在地である御嶽は水晶の産地である」と誤ったお墨付きを与えてしまえば、観光案内や旅行案内で「水晶といえば昇仙峡」というイメージが広まっていくのに時間はかからなかったということです。

山梨において現代の宝飾産業に繋がる水晶加工が始まった場所が御嶽村であるというのが適切な位置づけになりますので、「昇仙峡で採掘された水晶は存在しない」という投げかけの答え合わせができたのではないでしょうか。