2024年4月8日~8月30日まで、プチギャラリーにて『御巣鷹山水晶鉱山遺跡指定記念「上黒平の水晶」展』を開催しました。
本コラムでは展示と解説の一部を紹介します。
御巣鷹山は、現在の甲府市上帯那町に位置する山です。
最近の調査によって、2024年に近世・近現代の水晶鉱山(生産遺跡)として御巣鷹山水晶鉱山遺跡という遺跡になりました。
山梨の水晶鉱山としては初めての遺跡になります。
今回の展示では、当館の調査研究の成果として、御巣鷹山における江戸時代以降の水晶採掘の様子や、御巣鷹山周辺の遺跡から出土した水晶について紹介しました。
縄文時代
御巣鷹山から西に2kmほどの位置に、判平遺跡という遺跡があります。
この判平遺跡からは縄文時代の水晶石器が出土しました。黒曜石の石器も出土しましたが、黒曜石よりも水晶の方が多く出土し、その水晶の多くは御巣鷹山の水晶であることがわかりました。
水晶は古くから山梨での暮らしを支えていました。
縄文時代の水晶石器
江戸時代
古文書に初めて登場するのは文政9年(1826年)です。
明治~昭和にかけて山梨の水晶を収集していた百瀬康吉の研究によると「江戸時代は水晶は発見されても幕府のものになるため掘って採掘しようとするひとはおらず、がけ崩れなどで露出した水晶を拾っていた」と考えられていました。
しかし、今回の展示にあわせて古文書の内容を整理したところ、1855年の古文書に「古間歩水晶石掘取御下知願」という文書がありました。一般的に「間歩」とは鉱石を取るために掘った穴のことを指します。
この文書は「間歩の床に(昔は取れなかった)水晶を発見したのでとってもいいか?」というお伺いの文書になりますので、江戸時代にすでに坑道を掘って水晶を採掘していた可能性が指摘できました。
江戸末もしくは明治初期
縄文時代の水晶石器が出土した判平遺跡では、江戸末もしくは明治初期の茶碗とともに、研磨された水晶が2点見つかりました。
水晶の研磨は、江戸時代の天保年間に京都玉屋の弥助という人物が金櫻神社の御師に伝えたとされています。
この研磨された水晶は江戸末もしくは明治初期に水晶の研磨が実際に行われていたことを示す重要な資料です。
遺跡出土の研磨された水晶
明治時代
鉱山に関する法律「日本坑法」が制定され、この法律にのっとった鉱山開発が始まりました。
このとき、御巣鷹山の水晶鉱山には「向山鉱山」という名前が付けられました。
明治21年前後に水晶採掘の最盛期を迎えましたが、鉱山開発により山の治水機能が失われ、甲府で洪水が発生するようになりました。
水晶鉱山の開発自体は禁止されませんでしたが、開発後に砂防設備や植林による原状回復が義務化され、儲けることができなくなり鉱山開発はほとんど停止しました。
大正時代
この時代の記録はほとんど残されていませんが、昭和11年「綜合郷土研究」という書籍に1914年(大正3年)から現在まで水晶の産出があることが書かれており、個人や家族という小規模では水晶を採掘していたと考えられます。
昭和時代
水晶は電気を流すと振動する特性を持ち、無線機になどの通信機器に欠かせない材料でした。
しかし、戦時中は外国から水晶を輸入することができなかったため、1943年~1946年の4年間向山鉱山で水晶が採掘された記録が残っています。
昭和時代に再開発された坑道
このように今回の展示を通じて、御巣鷹山の水晶が様々なかたちで山梨の歴史の中に存在したことを再確認することができました。
さらに今回の展示では、宝石研磨しているVTuberごもも🍑@gomomomomomomoさんに展示を取材していただき、山梨の水晶文化の発信にご尽力いただきました。
カットしていただいた御巣鷹山のまりも入り水晶の展示は、たくさんの方に御巣鷹山の水晶や山梨の水晶文化を知っていただく良い機会になったのではないでしょうか。
展示は会期で終了してしまいますが、動画で振り返ることができますので是非ご覧ください。