水晶の歴史③:仏教と水晶

古墳時代の終わり頃、日本に仏教が伝来します。
崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏との争いの末、推古天皇の即位にあわせて摂政となった聖徳太子は蘇我稲目と共に仏教を取り入れた国家づくりを始めました。

聖徳太子は冠位十二階や十七条の憲法などの様々な制度を定めました。
特に冠位十二階では冠の色の違いで身分の高下を表すようになり、古墳時代までに見られたような権力を示すための金・宝石を利用した装身具は利用されなくなりました。
古墳時代までに見られた装身具用の水晶製玉類はその必要性がなくなり、作られなくなっていきました。

一方で、仏教には七宝と呼ぶ貴重な七種の宝があり、この七宝のひとつに玻璃(水晶)が位置づけられています。
仏教に関連した飛鳥時代の水晶として、奈良県当麻寺西塔の水晶玉滋賀県崇福寺の水晶舎利粒が知られています(画像は用意できませんのでそれぞれのリンク元等にてご確認ください)。
飛鳥時代以降、水晶は装身具ではなく「宗教関連の道具・宝物」に利用されていくことになります。

奈良時代になると、水晶を利用した数珠(誦数や念珠と書かれることもあります)が普及します。
例えば『東大寺献物帳』の756年の項では純金・白銀・瑪瑙・水晶・琥珀・真珠・紫瑠璃製の数珠の記載があります。
また、法隆寺には水晶・菩提樹・ガラス玉が用いられた金剛子念珠が納められています。

金剛子念珠(法隆寺宝物)
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(詳細はこちら

奈良時代には宝冠や白毫に水晶を嵌め込んだ仏像も造られています。
東大寺不空羂索観音立像の宝冠にはヒスイ、琥珀、真珠、水晶などの貴石が1万点以上あしらわれていると言われています。

東大寺不空羂索観音立像
出典:Wikipedia(詳細はこちら

仏像に関連して、平安時代の晩期になると目の部分にレンズ状の水晶を嵌め込む玉眼という技法が利用されるようになります。
制作年がわかる最古の玉眼は1151年の長岳寺阿弥陀三尊像(奈良県天理市)です。
その後、鎌倉時代には玉眼の技法が一般化していきます。
珍しい例として、目ではなく唇に水晶を嵌め込んだ仏像も作られています。

また、鎌倉時代になると密教(真言宗)で火炎宝珠型舎利容器が普及していきます。
どの用に水晶を加工したのかは定かではありませんが、舎利容器として舎利粒を納めるように穴があけられ、外形も複雑な形に加工されています。
きっと水晶加工の高い技術が存在していたのでしょう。

金銅火焔宝珠形舎利容器
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(詳細はこちら

鎌倉時代以降も現在まで仏教の中で水晶が利用され続けます。
しかし、数珠、玉眼や白毫、舎利容器といったこれまでと同様のものに利用され、新しい利用方法は出てきません。